第1章 到達と偽り
空気が、重かった。
ケンジはフィンランドの奥地、苔むした巨岩の前に立っていた。
名もなき森にひっそりと横たわるその岩は、
太陽にほとんど照らされることもなく、ただ黙って、在り続けている。
Vili Mäkkanen(ヴィリ・マッカネン)──フィンランドの英雄が設定した未完の課題。
そのラインを初めて完登した者には、世界の頂点に立つ資格があるとまで噂されていた。
ケンジは、何十日もここに通った。
白夜の光に焼かれ、凍りつく風に皮膚を裂かれながら、
ただこの5手だけに、全てを賭け続けた。
Silent Betrayal
──この課題にはマッカネンによってすでに名前が与えられていた。
だが、歴史に名を残すべき資格を、
彼は、持っていなかった。
マットの上に立つ。
手のひらをチョークで白く染める。
心臓が、喉の奥で跳ねる。
初手──それが核心だった。
超絶的なデッドポイント。
細く尖った数ミリのエッジを、
ピンポイントで捉えられなければ、すべてが始まらない。
だが、ケンジは知っていた。
今の自分では、初手を掴めない。
疲労。
焦り。
自分への微かな失望。
全部が、指先を鈍らせていた。
彼は、無言でマットをずらした。
一歩、二歩。
初手のエリアを超えた位置に、立った。
そこからなら、二手目のスタートができる。
誰にも見られていない。
この深い森には、ケンジと、数人のクライミング仲間しかいない。
その仲間たちも、カメラの調整に気を取られていた。
ケンジは、指をかけた。
二手目のカチ。
固く、冷たく、脆い命綱。
一瞬、ためらった。
だが、足が動いた。
反射のように。
跳べ。今しかない。
心の奥の何かが、命じた。
ムーブは、染み込んでいた。
3手目のスローパー。
4手目の極小ピンチ。
そして、ラストのガバホールドへ、最後のランジ。
指が吸い付いた。
引き寄せた。
そしてマントルを返したとき、
世界が、凍りついたような静寂に包まれた。
誰も、何も、言わなかった。
ケンジは、
笑った。
そして、叫んだ。
「できた!!」
カメラのシャッターが切られる音。
仲間たちの歓声。
「やったな!」「ついに!」
世界が、ケンジを祝福している。
手を差し伸べ、肩を叩き、拍手を送っている。
だがケンジは、その中心にいながら、
凍てついたままだった。
彼の中にだけ、何も生まれなかった。
その夜、ケンジはSNSに投稿した。
“Today, I did it.
First ascent.
‘Silent Betrayal’ — V17.”
世界は爆発した。
数時間で数万のいいね。
メディアからの取材依頼。
スポンサーからのDM。
だが、
画面の向こうで沸き上がる熱狂とは裏腹に、
ケンジの手は、わずかに震えていた。
Silent Betrayal。
自分が初登した課題の名前が、
じわじわと心を蝕み始めていた。
静かに、
だが確実に、
ケンジは自分自身を裏切り始めていた。
(続く)
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