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「虚栄のホールド」 偽りのV17クライマー

第1章 到達と偽り


空気が、重かった。

ケンジはフィンランドの奥地、苔むした巨岩の前に立っていた。

名もなき森にひっそりと横たわるその岩は、

太陽にほとんど照らされることもなく、ただ黙って、在り続けている。

Vili Mäkkanen(ヴィリ・マッカネン)──フィンランドの英雄が設定した未完の課題。

そのラインを初めて完登した者には、世界の頂点に立つ資格があるとまで噂されていた。

ケンジは、何十日もここに通った。

白夜の光に焼かれ、凍りつく風に皮膚を裂かれながら、

ただこの5手だけに、全てを賭け続けた。

Silent Betrayal

──この課題にはマッカネンによってすでに名前が与えられていた。

だが、歴史に名を残すべき資格を、

彼は、持っていなかった。


マットの上に立つ。

手のひらをチョークで白く染める。

心臓が、喉の奥で跳ねる。

初手──それが核心だった。

超絶的なデッドポイント。

細く尖った数ミリのエッジを、

ピンポイントで捉えられなければ、すべてが始まらない。

だが、ケンジは知っていた。

今の自分では、初手を掴めない。

疲労。

焦り。

自分への微かな失望。

全部が、指先を鈍らせていた。


彼は、無言でマットをずらした。

一歩、二歩。

初手のエリアを超えた位置に、立った。

そこからなら、二手目のスタートができる。

誰にも見られていない。

この深い森には、ケンジと、数人のクライミング仲間しかいない。

その仲間たちも、カメラの調整に気を取られていた。

ケンジは、指をかけた。

二手目のカチ。

固く、冷たく、脆い命綱。

一瞬、ためらった。

だが、足が動いた。

反射のように。

跳べ。今しかない。

心の奥の何かが、命じた。


ムーブは、染み込んでいた。

3手目のスローパー。

4手目の極小ピンチ。

そして、ラストのガバホールドへ、最後のランジ。

指が吸い付いた。

引き寄せた。

そしてマントルを返したとき、

世界が、凍りついたような静寂に包まれた。

誰も、何も、言わなかった。

ケンジは、

笑った。

そして、叫んだ。

「できた!!」

カメラのシャッターが切られる音。

仲間たちの歓声。

「やったな!」「ついに!」

世界が、ケンジを祝福している。

手を差し伸べ、肩を叩き、拍手を送っている。

だがケンジは、その中心にいながら、

凍てついたままだった。

彼の中にだけ、何も生まれなかった。


その夜、ケンジはSNSに投稿した。

“Today, I did it.

First ascent.

‘Silent Betrayal’ — V17.”

世界は爆発した。

数時間で数万のいいね。

メディアからの取材依頼。

スポンサーからのDM。

だが、

画面の向こうで沸き上がる熱狂とは裏腹に、

ケンジの手は、わずかに震えていた。

Silent Betrayal。

自分が初登した課題の名前が、

じわじわと心を蝕み始めていた。

静かに、

だが確実に、

ケンジは自分自身を裏切り始めていた。


(続く)

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