「虚栄のホールド」 偽りのV17クライマー


第2章 拡大する虚像

通知音が止まらなかった。

ケンジは、ベッドの上でスマートフォンを見つめていた。

明け方のフィンランド、薄明るい空の下。

眠ることも、目を閉じることもできないまま、ただ画面の光を見続けた。

「世界初のV17」

「Silent Betrayal、攻略!」

「新たな伝説の誕生」

──そう、皆が言っていた。

誰も疑っていなかった。

誰も、彼の指先が本当に最初のカチを掴んだかどうかなど、見てはいなかった。

世界は、結果だけを求めていた。


メールボックスにはスポンサー契約のオファーが殺到していた。

ギアメーカー。エナジードリンク企業。アウトドアブランド。

すべてがケンジの名前を、ブランドに結びつけたがっていた。

「Silent Betrayal初登の男」

その称号だけで、どんな市場にも打って出られる。

それほどまでに、“V17”という響きは、

現実離れした力を持っていた。


だが、ケンジの胸の奥では、

別のものが静かに膨れ上がっていた。

虚しさ。

本当なら、歓喜に打ち震えているはずだった。

達成感に満たされているはずだった。

岩を登りきったあの日々を、誇りに思っているはずだった。

だが、代わりに心を支配していたのは、

空洞のような沈黙だった。

誰かに祝われるたびに、

「違うんだ」と叫び出したくなった。

けれど、それを口にした瞬間、

すべてが崩れ去ることも、分かっていた。


高橋からメッセージが届いた。

「本当におめでとう。

まじですごいよ。

今度、また一緒にセッションしような。」

ケンジはスマホを握りしめた。

高橋の顔が、脳裏に浮かぶ。

あの真っ直ぐな目。

あの時、岩場で一瞬だけ向けられた、

微かな違和感混じりの視線。

──「ケンジ、初手の時足擦った……?」

声にならなかった疑念。

消されかけた直感。

でも、高橋は何も言わなかった。

祝福の輪に呑み込まれ、

疑問を飲み込み、

ケンジの”成功”を信じた。

それが、余計に苦しかった。


数日後、ヘルシンキで記者会見が開かれた。

ケンジは、スポンサーロゴを背負ったパネルの前に座り、

カメラとフラッシュの嵐に晒された。

「Silent Betrayalを初登した感想を聞かせてください。」

司会者が笑顔でマイクを向けた。

ケンジは、作り笑いを浮かべながら答えた。

「……本当に、信じられない気持ちです。

ずっと夢だった。

フィンランドの大地に、自分の名前を刻めたことを、誇りに思います。」

口から出た言葉が、自分のものとは思えなかった。

喉の奥に引っかかる何か。

飲み込めない棘のようなもの。

その声を聞きながら、

Silent Betrayalの岩肌が、

心の中でじわじわと広がっていくのを感じた。

白く、冷たく、無言で。

指先に、あの日感じた冷たい風が蘇った。

本当に、登ったか?

内なる声が、囁いた。

ケンジはマイクを握る手に力を込めた。

震えを、悟られないように。


そして、世界は次の要求を始めた。

  • 「次のSilent Betrayalを!」
  • 「もっと高いVグレードを!」
  • 「もっとすごい初登を!」

彼らは、ケンジを祝福するために、

さらに高い場所へと押し上げようとした。

だがケンジは知っていた。

Silent Betrayalの初手すらも、

まだ一度も掴めていないことを。


(続く)

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