「虚栄のホールド」 偽りのV17クライマー


第3章 崩れる心


「やってみろよ、ケンジ。

あの新しい三段、たぶんいけるだろ?」

ジムのスタッフが、期待に満ちた声で言った。

周囲には見知らぬクライマーたち。

スマホを手に、ケンジを待ち構える視線。

ケンジは壁を見上げた。

ハリボテだらけの人工壁。

セッターが組んだ超高難度ルート。

登れるはずだった。

本来の彼なら、確かにチャレンジするくらいはできたはずだった。

だが、

足が、動かなかった。


指先が、微かに震えた。

ホールドに触れた瞬間、全身を冷や汗が覆った。

Silent Betrayalの感触が、脳裏をよぎった。

あの冷たいカチ。

掴み損ねた初手。

飛ばしてしまった出発点。

今、何かを掴もうとするたび、

彼の中で、あの日の罪が疼いた。

身体が、拒否していた。


一手、二手、

無理に動こうとした。

だが、動きはぎこちなく、

足がすべった。

体勢を崩した。

周囲がざわめく。

「え、ケンジ?」

「Silent Betrayal登った人だろ?」

「…調子悪いのかな?」

囁き声が、刺さる。

ケンジは、苦笑いを浮かべて壁を降りた。

そして、心の中で絶叫した。

「違う、こんなはずじゃない!」


それから、坂を転がるように、

すべてが狂い始めた。

セッションに呼ばれても、

スポンサーイベントに出ても、

彼は「Silent Betrayalを登ったクライマー」という肩書きでしか見られなかった。

誰も、今のケンジを見ていなかった。

みんな、あの日の幻影を見ていた。

その幻影に応えるために、ケンジは無理を重ねた。

無理にムーブを起こし、無理にトレーニングを増やし、

体を、心を、壊していった。


高橋が、久しぶりに連絡してきた。

「最近どう?元気ないみたいだけど……

またセッションでもしない?」

ケンジは、

既読だけつけて、

返信できなかった。

高橋は知っている。

いや、正確には、気づいている

あの日、Silent Betrayalの岩の前で、

ケンジがちゃんと登っていなかったことを。

彼の足が、マットに擦っていた事を。


数週間後、ネットに匿名投稿が現れた。

「Silent Betrayal初登の映像、おかしくない?」

「最初のムーブの時マットに足擦ってないか?」

「いい感じの音楽つけて擦った音編集されてない?」

初めは小さな火だった。

誰も本気にしていなかった。

だが、火は燃え広がった。

過去の映像、目撃証言、矛盾点。

小さな綻びが、次々に見つかった。

「ケンジ、嘘ついたんじゃないか?」

SNSで、クライミングメディアで、

ざわめきは確信へと変わり始めた。


スポンサーから連絡が来た。

「一時的に契約を保留にします。」

メディアから連絡が来た。

「説明を求めます。」

高橋からもメッセージが来た。

「ケンジ。

もし苦しいなら、話してほしい。」

ケンジは、

スマホを机に叩きつけた。

何もかもが崩れていく音がした。

だが、本当に壊れたのは、

Silent Betrayalを登ったと叫んだ、

あの日からだった。


(続く)

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