第4章 暴かれる嘘
最初は、「ただのアンチだ」と思いたかった。
SNSに広がり始めた批判の言葉たち。
ケンジは見ないようにした。
画面を閉じ、目を逸らし、耳を塞いだ。
だが、言葉たちはケンジを追いかけた。
どこへ逃げても、画面越しに、現実の空気に、
あの問いが付きまとった。
「Silent Betrayal、本当に完登したのか?」
あるクライミング系メディアが、検証記事を出した。
- 公開されている動画に初手ムーブがないこと
- 当日の写真と位置関係が一致していないこと
文章は冷静だった。
断定ではなかった。
だが、読み手は理解した。
「嘘だったのかもしれない」と。
スポンサー契約は次々に打ち切られた。
取材はすべてキャンセルされた。
街を歩くと、
見知らぬ視線が刺さった。
かつて「ヒーロー」と呼ばれた男への、
冷たく、痛々しい視線。
Silent Betrayal。
静かな裏切り。
その名前が、
現実になった。
高橋が家に来た。
何も言わず、玄関に立ったまま、ケンジを見た。
ケンジも、何も言えなかった。
沈黙の中で、すべてを理解していた。
あの日の、あの最初の一手を。
飛ばしたことを。
誰にも言えなかったことを。
やがて、高橋が低く呟いた。
「ケンジ……
俺たち、ただ登ってただけだったよな……?」
その言葉に、
ケンジは何も返せなかった。
ただ、うなだれた。
友人のまっすぐな目を見る資格など、
もうなかった。
その夜、ケンジは夢を見た。
Silent Betrayalの岩が、
夜の中でうごめいていた。
声なき声で、問いかけてきた。
「なぜ逃げた?」
指先が凍えた。
足が、地面に縫いつけられた。
声が出ない。
動けない。
ただ、岩だけが、そこにあった。
初めから、ずっと。
彼を見つめていた。
彼の嘘を、
彼の逃げた背中を、
見逃さずに。
翌朝、ケンジは荷物をまとめた。
目的はひとつ。
Silent Betrayalのもとへ戻る。
すべてを始めた場所に、
すべてを終わらせに行くために。
空は曇っていた。
フィンランドの冷たい森に、湿った風が吹く。
苔に覆われた巨岩が、
何も変わらず、そこにあった。
最初にここへ来たときと同じように、
静かで、
重くて、
冷たかった。
ケンジはチョークバッグを腰に巻き、
黙って壁を見上げた。
そこに立っているだけで、
胸の奥が、痛んだ。
手を伸ばす。
初手へ。
届かなかった。
かすりもしなかった。
二度目。
三度目。
指先が切れ、血が滲む。
それでも、登ろうとした。
今度こそ、正直に。
今度こそ、真っ直ぐに。
だが、体は動かなかった。
Silent Betrayalは、
ケンジの手を拒んだ。
静かに、
当たり前のように、
拒んだ。
膝をついたケンジは、岩に額を押し当てた。
何も言葉は出なかった。
ただ、胸の奥から、
にじみ出るような、
静かな涙だけが落ちた。
Silent Betrayalは、
何も言わなかった。
だが、ケンジにはわかった。
登れなかったことも、
嘘をついたことも、
それでも岩が、何も変わらずそこに在り続けていることも。
全部、わかった。
彼は、呟いた。
「ごめん……」
誰に向かってかもわからない。
岩に、
高橋に、
世界に、
何よりも、自分自身に。
小さな、小さな声だった。
でも、それだけが、
初めての、
本当の声だった。
(続く)
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