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「虚栄のホールド」 偽りのV17クライマー

第5章 破滅


ケンジが岩を離れたとき、

雨が降り始めた。

細く冷たい霧雨。

森の匂いを濡らし、土を黒く染める雨。

Silent Betrayalは、何も言わなかった。

ただ静かに、ただそこに在った。

ケンジは、重い足を引きずるように、岩場を後にした。

後ろを振り返ることは、できなかった。


街に戻ると、

すべてが終わっていた。

メールボックスはスポンサー解除の通告で埋まり、

携帯にはメディアからの着信が絶え間なく鳴り響いていた。

「真実を語ってください」

「なぜ嘘をついたのか」

「ファンへの裏切りをどう考えますか?」

誰も、「大丈夫か」とは聞かなかった。


SNSは荒れ果てていた。

  • 「ただの詐欺師」
  • 「登りもしないで王冠を名乗るな」
  • 「Silent Betrayalを汚した男」

かつて「英雄」と呼んだ人々が、

今度は石を投げつけていた。

ケンジは、それを見つめた。

怒りも、悲しみも、感じなかった。

ただ、空っぽだった。

世界は、もともとそういうものだった。

祝福も、罵倒も、ただの風にすぎなかった。

問題は、外にあるのではなかった。

嘘をついたのは、ケンジ自身だった。


部屋の隅で、

Silent Betrayalの写真が落ちていた。

初登を記念して、飾られていたパネル。

誇らしげに、自分が掲げた両手。

その笑顔。

すべてが、

嘘だった。

ケンジは写真を拾い、

ゆっくりと引き裂いた。

破かれた自分の顔が、

床に落ちた。


誰も、ケンジに連絡をよこさなくなった。

高橋も、もう来なかった。

スポンサーも、メディアも、

すべてが、ケンジを切り捨てた。

だが、本当に苦しかったのは、

誰にも責められないことだった。

世界が彼を忘れていく速さに、

自分が追いつけなかった。

Silent Betrayalだけが、

彼の胸に、

今も、凍てついたまま残っていた。


ある夜、ケンジはチョークバッグを手にした。

静かなアパートの一室。

誰もいない。

誰も見ていない。

白い粉を手に取り、

そっと握った。

手の中で、かすかに滑るチョークの感触。

指先が、覚えていた。

あの感触を。

あの岩を。

あの、掴めなかった最初の一手を。


壁を登りたかった。

何も考えずに、ただ。

グレードも、名声も、

Silent Betrayalの影もない、

ただ登ることだけを。

でも、もうできなかった。

体が、心が、

Silent Betrayalに縛られていた。


夜明け前、ケンジはアパートを出た。

空気は凍るほど冷たく、

街はまだ眠っていた。

彼は小さな岩場へ向かった。

観光客も来ない、無名の、名もない石。

そこには、

グレードも、記録も、誰の注目もなかった。

ただ、

岩があった。


ケンジは岩に触れた。

冷たかった。

固かった。

でも、

Silent Betrayalのような拒絶はなかった。

岩は、そこにあった。

在るだけだった。


彼は、一手を出した。

慎重に。

誰にも見られず、

誰にも知られず。

二手目。

三手目。

指が震えた。

足がすべった。

だが、彼は笑った。

「これだ」

心の奥で、声がした。

登るために登る。

失敗しても、

誰に見られなくても、

誰にも認められなくても。

それだけで、

十分だった。


小さな岩の上に立ったとき、

ケンジは初めて、

涙を流した。

Silent Betrayalの呪いが、

ほんの少し、

溶けた気がした。


(続く)

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