「虚栄のホールド」 偽りのV17クライマー

第6章 贖罪と再生


春になった。

フィンランドの森は、

わずかに色を取り戻していた。

雪解けの水が苔を濡らし、

遠くで小鳥たちが、まだ頼りない声を上げていた。

ケンジはSilent Betrayalの岩の前に立っていた。

あれから何ヶ月も経った。

誰も彼を英雄と呼ばなくなった。

誰も彼の名前をニュースで取り上げることはなかった。

フォロワーは激減し、スポンサーも去り、

彼は、ただ一人になった。

それで、よかった。


岩は変わっていなかった。

重く、冷たく、沈黙している。

だがケンジの見る目は、変わっていた。

かつては、

この壁を”征服するもの”だと思っていた。

自分を証明するための、踏み台だと思っていた。

今は違う。

壁はただそこにあった。

登れるかどうかも関係ない。

自分がどうであれ、

壁は壁であり続ける。

それを、

ケンジはようやく理解していた。


彼は、深く息を吸い、

チョークバッグに手を入れた。

手を、岩に伸ばす。

初手──

あの呪われたカチ。

指先を、押しつける。

滑った。

すぐに、落ちた。

でも、立ち上がった。

また、手を伸ばした。

また、落ちた。

何回も、何十回も。


フォンランドに戻ってきて二週間が経ったツアー最終日、

太陽が、森の向こうに沈みかけていた。

体はボロボロだった。

指の皮膚は裂け、血が滲んでいた。

だがケンジは、

笑っていた。

誰にも見られない。

誰にも評価されない。

ただ、登ろうとする。

ただ、手を伸ばし続ける。

Silent Betrayalは、

相変わらず何も答えない。

だがそれでよかった。

登るとは、

答えをもらうことではない。

ただ問い続けることだった。


最後のトライ。

ケンジは、マットの上に立った。

初手へ──

指先が、

かすかに、

エッジを捉えた。

体が浮いた。

足は擦ってない。

今まで一度も届かなかった場所。

静かに、慎重に、体を引き上げる。

二手目、三手目、四手目。

呼吸が乱れる。

指が軋む。

だが、行ける。

今だけは、行ける。


そして、ラストのガバホールドへ──

指を伸ばす。

体を伸ばす。

時間が止まった。

世界が消えた。

ただ、岩と自分だけ。


指先が、ホールドを捉えた。

止まった。

そこに、留まった。

ケンジは、

体を押し上げ、

静かに、

岩の上に立った。

誰も、いなかった。

歓声も、カメラも、称賛もなかった。

ただ、

沈黙の森と、

冷たい空と、

自分自身だけが、そこにいた。


ケンジは、

目を閉じた。

涙が頬を伝った。

Silent Betrayalは、

何も言わなかった。

だが今、初めて、

本当にそこに登ったと、

胸を張って言えた。

誰に聞かれることもなく、

誰に見せることもなく、

ただ自分だけが、知っている真実。


岩の上で、ケンジは呟いた。

「ありがとう。」

それは、岩に対してでも、

過去の自分に対してでもなかった。

それは、

ただ、今、ここに立てたことへの、

静かな感謝だった。


そしてケンジは、

岩を降りた。

ゆっくりと、慎重に、

足元を確かめながら。

再び登るためでもない。

勝利を証明するためでもない。

ただ、

生きるために。


太陽が、森の向こうに沈んだ。

静かな夜が、

再び、世界を包み込んだ。

Silent Betrayalは、

何も変わらず、そこに在り続けた。

これまでも、

これからも。

そしてケンジもまた、

変わらず、

生き続けていくのだった。


(完)

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