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【小説】「たった一件のいいね」

第3話『外岩へ――雨の中の約束』


雨に濡れた週末。

ミキを遠征ジムへ誘い、8時間登り倒した狂気の日。

ヤスの世界へ、ミキは一歩、踏み込んだ。


雨に濡れた週末

金曜の夜、ジムの帰り道。

駅までの道を、ヤスとミキは並んで歩いていた。

「……あの、ヤスさん。

 来週も、また来てもいいですか?」

ミキが小さな声で訊いた。

「別に、俺に許可取る必要ないよ。」

ヤスは肩をすくめて答えた。

だが、内心では少しだけ、嬉しかった。

(――毎週、来るってことか。)


遠征の提案

週末の天気をスマホで確認した。

天気は「雨」。

(……クソ、岩行けねえじゃん。)

しばらく画面を見つめたあと、

ヤスはふと思いついた。

「日曜、違うジム行ってみる?」

「本当ですか!?やった!」

無邪気に喜ぶミキ。

その姿に、また胸の奥がチクリと痛んだ。


電車での小さな旅

日曜日。

朝9時、待ち合わせの駅にミキが現れた。

リュックを背負い、まだ眠そうな顔をしている。

「おはようございます……」

「おう。」

ヤスはあくまでそっけなく答える。

電車を乗り継ぎ、2時間。

途中、ミキがぼそっと言った。

「けっこう、遠いですね……」

「まあ、どうせ行くなら行ったことないジム行きたいじゃん。」

ヤスはさらりと言った。

(別に、ミキに合わせて遠出したわけじゃない。)

そんなふうに、自分に言い聞かせた。


初めての大型ジム

到着したのは、郊外の大型クライミングジム。

天井高、課題数、雰囲気――

どれも、ヤスが事前に調べ尽くして選んだ場所だった。

ただ、

想定外だったのは、グレーディングの辛さだった。

壁に貼られた2級のテープ。

一手目から遠い。

ホールドも細かく、悪い。

(……いや、まぁ、初見だからな。)

ヤスは心の中で言い訳しながらトライした。

1回目、2手目で落ちる。

2回目、スタートマッチすらできず、ズルズルと落ちる。

ミキが、心配そうにこちらを見ていた。

「えっと……すごく難しそうですね……!」

(クソッ……!)

プライドをズタズタにされながら、ヤスは涼しい顔を装った。

「まあ、ここのグレード、めちゃめちゃ辛いからさ。

 俺のホームジムだったら、これ、普通に1級くらいある。」

「へえ〜!」

ミキは素直に感心してくれた。

ヤスは、さらに簡単な3級に切り替えた。

それでも一撃できず、3トライ目でようやく完登。

汗びっしょりになりながら、無理に笑った。

「やっぱ初見ジムはコンディションも大事だからな。」

「はいっ、すごいです!!」

ミキのキラキラした瞳だけが救いだった。


狂った8時間

気づけば、8時間以上登り続けていた。

ミキは壁の前で、ぐったりと座り込んでいた。

「はぁ〜……さすがに……やばい……」

見るからに体が限界を迎えている。

だが、ヤスは壁を見つめながら呟いた。

「……あとスラブだけやっとくか。」

「えっ……」

ミキの顔が、うっすらと引きつった。

普通なら、初級者を8時間も登らせるなんてあり得ない。

指皮はすり減り、腕はプルプル震えているはずだ。

けれど、ヤスにはそんな常識はなかった。

“登れるうちは登る”

“動けるうちは打ち込む”

それが、体に染み付いていた。

「無理しなくていいからね。」

そんなことを言いながら、

ヤスはもう次の課題を選んでいた。


小さな根性

ミキは震える手でシューズを履き直し、立ち上がった。

普通なら、泣きながら帰ってもおかしくない。

なのに、ミキは、また壁に向かおうとしていた。

「無理しないでね。」

「だ、大丈夫です……!」

声が裏返りながらも、ミキは笑った。

その姿に、ヤスはほんの少しだけ心を打たれた。

(……やるじゃん。)


電車の中で

帰りの電車。

ミキはウトウトと眠っていた。

ヤスは、隣で指先を見つめた。

皮膚が薄くなり、ほんのり赤みを帯びている。

(……にしても、この子、よく登ったな。)

スマホに映るミキの寝顔を、チラリと横目に見た。

(この子、意外と根性あるな。)

そして、静かに思った。

(……そろそろ、外岩に誘ってもいいかもな。)


第四話へ(続く)

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