MENU

【小説】「たった一件のいいね」

第4話『外岩へ』


ミキを誘い初めての外岩。

山梨・瑞牆山の森の中、ミキは震えながら壁に立つ。

そこで待っていたのは、甘くない「現実」だった。


朝4時半、出発

日曜日、朝4時半。

まだ夜が明けきらない闇の中、

ヤスは車を走らせていた。

助手席にはミキ。

ぼんやりとリュックを抱え、まだ眠そうな顔をしている。

「……眠い?」

ヤスがハンドルを握りながら訊く。

「うん……ちょっとだけ。」

ミキは小さく笑った。


目的地、瑞牆山へ

向かうのは山梨県・瑞牆山(みずがきやま)。

森に点在する花崗岩の巨岩群。

冷たい空気。

湿った土の匂い。

クライミング中毒者にとっては、聖地とも言える場所だった。

ミキは、窓の外を眺めながら呟いた。

「……すごい。本当に山の中ですね。」

「うん。ここ、いいとこだよ。」

ヤスは短く答えた。


到着

駐車場に着くと、ヤスはトランクを開けた

そして――

次々とクラッシュパッドを引っ張り出す。

一枚、二枚、三枚、四枚。

ミキは目を見開いた。

「えっ……こんなに……?」

「初めてだし、安全第一な。」

ヤスはぶっきらぼうに言ったが、

普段なら絶対にこんなに持ってこない。

(……こいつに怪我させたら、マジで後味悪いからな。)

ヤスなりの、不器用な優しさだった。


車内でのクライミング談義

森へ向かう山道でも、

ヤスは延々とクライミングの話をしていた。

  • フリクションが良い気温帯
  • トポに載ってないマイナー課題の情報
  • 外岩とジムのフリクション差異についての持論

ミキは最初は熱心に聞いていたが、

次第に、内心で戸惑っていた。

(……すごいけど、なんか……怖い。)

ヤスはミキの微妙な空気の変化に気づかず、しゃべり続けた。


言葉と物

「この辺に、俺の憧れの課題があるんだ。」

森の入口でヤスがふと言った。

「言葉と物。四段。」

「ことばともの……?」

「瑞牆で一番難しいわけじゃない。でも、俺にとっては特別なんだ。」

シビアなヒールフックと、遠いガバカチ取り。

ずっと心の中で追いかけ続けた岩。

ヤスの声は、少しだけ遠くを見ていた。


雨岩の8級

最初に向かったのは、雨岩。

初心者向けの課題が多い岩だった。

「とりあえず、8級やろう。」

ヤスは、ミキのためにパッドを分厚く敷いた。

ミキは、緊張した表情で岩に向かう。

思ったよりも高く、思ったよりも冷たかった。

最初のトライは、数手で落下。

でも、何度も何度も、立ち上がった。

そして――

「できた……!」

ミキは泥だらけになりながら、ゴールにたどり着いた。

ヤスは、ほんの少しだけ口角を上げた。

(……悪くない。)


皇帝岩へ

午後、ヤスはミキを連れて皇帝岩へ向かった。

皇帝岩。

瑞牆でも有名な巨大な岩。

ここに、ヤスが打ち込続けた課題「皇帝」二段がある。

ヤスは無言で、マットを一枚だけ敷いた。

ピリピリと張り詰めた空気の中、ヤスはスタートに立った。


ミキの声

「ガンバっ!!」

ミキが無邪気に声をかけた。

その瞬間――

ヤスは小さく、でもはっきり言った。

「……ごめん、集中したいから、黙っててくれる?」

ミキはハッとして、口を押えた。

少しだけ、空気が凍った。

ヤスはそれを感じながらも、

邪魔しないで欲しいと思った。


皇帝、完登

数トライ目。

「ああああ!!」

這いつくばって不細工にマントルを返した

ヤスは「皇帝」を完登した。

岩の上で、拳を握る。

何年も心に刺さっていた棘が、

やっと抜けた瞬間だった。

「すごい……!」

ミキが拍手してくれた。

ヤスは、照れくさそうに岩から降りた。


浮かれて、誘う

達成感に浮かされたヤスは、隣の課題を指差した。

「あの『鏡』って6級、やってみなよ。高さあるけど、マットあるし。」

ミキは少し戸惑ったが、うなずいた。


落下

ミキがスタート。

一手、二手――

バランスを崩した。

ドスン!

乾いた音を立てて、マットに叩きつけられるミキ。

「っ……!」

右足を押さえ、苦しそうに顔をしかめる。

ヤスは青ざめた。

「ミキ、大丈夫か!?」

「……いたい……」


病院へ

急いで車を飛ばし、最寄りの病院へ。

診断は――

右足首の靭帯損傷と小さな骨折。

「復帰まで半年以上はかかりますね。」

医者の言葉が、ずっしりと重く響いた。

ヤスは、ただ、ミキの隣に座っていた。


狂気と後悔

夜。

コンビニの駐車場に止まった車の中で、

ヤスはハンドルを握りながらうつむいていた。

(……本当は、もっと登りたかったんだよな。)

そんな自分に、猛烈な嫌悪感が押し寄せた。

(……最低だな、俺。)

窓の外は、静かに雨が降っていた。


第五話へ(続く)

1 2 3 4 5 6 7 8
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次