第5話『消えた背中』
あの日から、彼女は来なくなった。
空白の壁。
乾いた手のひら。
ヤスは静かに、喪失を知る。
空っぽの金曜
金曜の夜。
ジムのドアを開けた瞬間、
ヤスは無意識に、あの場所を見た。
――いない。
ミキの姿は、どこにもなかった。
(……まあ、そりゃそうか。)
ヤスは壁に視線を移し、無言でストレッチを始めた。
静かな壁
チョークを手に馴染ませ、
壁に向かう。
普段なら、ミキがいるあたりに
人だかりができているはずだった。
でも、今日は違った。
空気が、少しだけ冷たく感じた。
送れなかったメッセージ
帰り道、何となくスマホを開いた。
ミキから届いていた、最後のLINE。
「しばらく登れないと思います。ごめんなさい!」
一瞬、返信しようとした。
「無理すんなよ」とか。
「待ってるよ」とか。
だけど――
指は、止まった。
(……何言ったって、どうにもならねぇだろ。)
結局、何も返せなかった。
画面には、
既読だけが、静かに灯っていた。
土曜の朝
翌朝。
いつものように外岩の準備をした。
マット。
シューズ。
チョークバッグ。
全て、無駄なく、手際よく車に積み込む。
けれど、
どこか、心に穴が空いている気がした。
瑞牆の森で
週末、瑞牆に登りに行った。
森は変わらず冷たく、岩は黙ってそこにあった。
マットを一枚だけ敷き、
黙々と岩に向かう。
いつも通り。
何も変わらない、はずだった。
でも――
(……なんか、違うな。)
掴むホールドの感触も、
地面に座る時の土の冷たさも、
どこか、よそよそしかった。
気づけば
気づけば、ミキと登った雨岩を、
ぼんやりと見上げていた。
あの日、
泥だらけになりながら笑っていた顔を思い出す。
(……しょうがねえよな。)
ヤスは無理やり、自分を納得させた。
- クライミングは自己責任だ。
- 怪我するリスクだって、最初からわかってたはずだ。
そうやって、何度も心の中で言い聞かせた。
でも、
靴ひもを締める手が、ほんの少し震えていた。
夜のジム
日曜の夜。
帰りに、またジムに寄った。
壁の前に立つ。
誰もいない、白いキャンバスみたいな壁。
ヤスは指先で軽くホールドを叩いた。
パフン。
チョークが、かすかに舞った。
(……俺、何やってんだろうな。)
小さく笑った。
誰にも聞こえないように。
第六話へ(続く)
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