第7話『言葉と物への再挑戦』
35歳で、背中を見た。
そこから、5年。
誰にも知られない戦いの果てに――
彼は、泣いた。
35歳の夜
ミキが「言葉と物」を完登したという投稿を見た夜。
ヤスは、スマホを手に固まっていた。
言葉と物。
あの瑞牆の、シビアな四段。
6年前、一緒に笑っていた女の子が――
今、自分が指一本届かない場所にいる。
(……クソが。)
スマホを叩きつけたくなる衝動を抑えながら、
ヤスは心の中で呟いた。
(俺も、やるしかねぇだろ。)
5年の始まり
翌朝から、ヤスの生活は変わった。
- 平日はコンディション調整と指皮管理。
- 土曜、日曜は瑞牆へ。
ただ、ひたすらに。
友達もいない。
恋人もいない。
インスタも、もうろくに更新しなかった。
(……いいよな。どうせ誰も見ちゃいねぇ。)
5年間。
瑞牆に通い続けた。
岩と、孤独
秋。
冬。
春。
夏。
季節が何周しても、言葉と物はそこにあった。
- 指皮が裂けた。
- ヒールを何百回も外した。
- 遠いカチに届かないまま、背中からマットに叩きつけられた。
誰も見ていなかった。
でも、ヤスだけは、諦めなかった。
40歳の朝
40歳になった年の秋。
ヤスは、瑞牆の森にいた。
朝の冷たい空気。
吐く息が白くなる。
バックパックの中には、
シューズとチョーク、マット一枚だけ。
無駄なものは、もう何も持たない。
岩の前に立ち、深く息を吸った。
最後のトライ
スタートに手を置く。
ヒールをかける。
遠いカチを睨む。
(……行け。)
小さく、心の中で自分にだけ言った。
身体を伸ばした。
指先が――かかった。
ヒールを残したまま体を引き上げ、左手を押さえ込む
トップアウトするまで、息を殺した。
そして――
完登
岩の上に、立った。
静かだった。
瑞牆の森には、風の音だけが響いていた。
誰もいなかった。
誰も見ていなかった。
でも、
(……やった。)
ヤスは、力が抜けたように、その場にしゃがみ込んだ。
そして、
静かに――
泣いた。
泣き方
声も出さず、
誰にも見られないように、
必死で顔を隠しながら泣いた。
40歳の男が、
誰にも知られず、
ただひとりで泣いていた。
みっともなく、
かっこ悪く、
でも、確かに生きていた。
乾杯
夜。
コンビニで買った安い缶ビールを、アパートで開けた。
スマホには、
自分の「言葉と物」完登動画。
誰にも送らなかった。
SNSにはまだ上げなかった。
ただ、再生しながら、
独り、小さく缶を掲げた。
「……おつかれ。」
涙の後味が、ビールの苦さと混ざった。
誰にも知られない勝利
40歳。
最高グレード4段。
でも、
世間はそんなこと、誰も知らない。
会社ではただの平社員。
SNSでは誰もいいねを押さない。
家族にも、もう何年も登ってるなんて話していない。
それでも――
ヤスは、胸を張って言える気がした。
(……俺は、俺を、裏切らなかった。)
それだけが、すべてだった。
最終話へ(続く)
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