最終話『最後のいいね』
たった一つの、いいね。
誰も知らない、小さな灯火が、そこにあった。
いつもの夜
金曜の夜。
仕事帰りにジムへ寄り、
軽くセッションして、
帰り道、コンビニで缶ビールを買う。
そんな、変わり映えのない夜。
ヤスは、アパートの安い椅子に腰かけ、
スマホをなんとなく開いた。
光る通知
インスタ。
滅多に開かなくなったそのアプリに、
小さな赤い通知がついていた。
「1件のいいね」
何気なく開く。
そこに――
見覚えのあるアイコンがあった。
ミキだった。
動けない時間
一瞬、
世界が静止した。
スマホを持つ手が、汗ばんでくる。
(……うそだろ。)
画面には、
自分があの後にアップした「言葉と物」完登動画。
そこに、ミキが、いいねを押していた。
それだけ。
それだけなのに。
ヤスは、しばらく何もできなかった。
何も変わらない
別に、メッセージが来るわけじゃない。
フォローが返ってくるわけでもない。
ミキは今、もっとずっと遠い場所にいる。
ヤスは、それを痛いほどわかっていた。
でも。
ただ、
たった一つの「いいね」が、
この5年、
いや、この11年を、
ほんの少しだけ、報われた気にさせた。
窓の外
スマホを机に置き、
ヤスは窓の外を見た。
夜の街。
ビルの明かり。
冷たい空気。
何も、変わらない。
でも、
ほんの少しだけ、世界が優しく見えた。
また、登る
ヤスは、スマホをポケットに突っ込み、
そっと立ち上がった。
壁を登るために、
指皮を育て、
また、ジムへ行く。
特別な理由なんか、もういらなかった。
ただ、
登るために、生きる。
それだけだ。
(終)