【小説】「After break」〜破壊(チッピング)と創造〜

第一章 「空観」

夜明け前の森は、まだ息を潜めていた。

薄墨色の霧の中、ひとりの男が岩の下に立つ。

胸まで伸びる古いロープの痕が、肩の筋肉をさらに浮き立たせていた。

その名は 一条 誠(いちじょう・まこと)

日本初のV15を切り開き、その後100本以上五段(V14)〜の課題を初登してきた、世界のメディアから “静かなるサムライ” と呼ばれた伝説のクライマーだ。

だが彼は栄光を背負いながらも常に孤独で、「岩そのものと対話する」 という原始的な哲学だけを信じていた。

岩が最初に語りかけてきたのは、深夜だった。

月明かりに照らされた前傾壁。

音はすべて遠ざかり、風も鹿の声も、どこか彼岸から届くような静けさの中で──

一条誠は、ふと足を止めた。

掌を岩に添える。

その表面は、冷たく、滑らかで、しかしどこか“整って”いた。

自然にできた形ではない、と錯覚するほどに、そこには流れがあった。

彼が見上げるその岩は、傾斜140度。

吸い込まれるように倒れた壁面に、ただ一筋の道だけが刻まれていた。

全20手。

見れば誰もが、そこを“登るべきライン”だと直感する。

ひとつひとつのホールドが、まるで計算された配置のように導いてくる。

まるで、岩が「美しさ」という設計図を抱いて生まれてきたかのように。

 

「……きれいだ」

思わず漏れた声は、岩に届いたのかどうか。

答えはない。

だが、この岩には“語りかける資格”がある──そう思わせる何かがあった。

彼は十年前から、この岩を見ていた。

初めて出会った瞬間から、この一本のラインが頭から離れなかった。

どれだけ時間が経っても、他のルートは浮かばなかった。

ただこの一本しか、存在しない。

他に選びようがない、絶対の道

これは課題ではない。

思想であり、構造であり、ひとつの問いだった。

 

彼はこのラインに「空観」と名付けた。

仏教の言葉、「空(くう)を観ずる」──存在の本質を見極める眼差し。

まさにその感覚に近かった。

ここには、虚無ではなく、完成がある

整いすぎていて、誰もが息を呑む。

思わず手を出したくなる。だが、それは触れてはならない聖域のようでもあった。

一条は、それを十年守り続けてきた。

誰にも教えず、SNSに載せず、岩の存在そのものを伏せたまま、ただ見つめていた。

なぜか。

彼にも、うまく言葉にはできなかった。

だが確信だけはあった。

この課題は、たった一度しか登られてはならない。

二度目の登攀は、模倣だ。

三度目にはもう、劣化する。

それは絵画の贋作と同じだ。

“本物”は一度きりでなければ、意味を失う。

 

彼はまだ登っていない。

だが、登る日は近いと感じていた。

掌を離し、静かにひと呼吸する。

遠くで鹿がもう一度鳴いた。

岩は、ただそこに立っていた。

ただそれだけで、完全だった。

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