【小説】「After break」〜破壊(チッピング)と創造〜


第二章 登攀

 

シャツを脱ぐ。

風が肌をなぞった。夜の空気は薄く、冷たい。

それでも一条は、いつもそうだった。

上裸。

己と岩のあいだに、なにも挟まない。

汗が流れることもある。擦れて血が滲むこともある。

それでも、そうすることに意味があると、彼は信じていた。

皮膚と石の接触。それが対話の最小単位だった。

 

岩の前に立ち、じっと見上げる。

140度の傾斜。その曲線は、美しすぎて、もはや“壁”というより意志だった。

手をチョークバッグに入れる。

粉が指の間で吸い込まれ、皮膚がきしむ。

右足をスメア。左足を小さなエッジへ。

一手、また一手。

静かに、滑るように、一条はラインを登っていく。

 

全20手。

ただの数字ではない。

その一手ごとが、何かの層を剥がす作業だった。

時間感覚が遠ざかる。

呼吸と脈拍が、彼の中心から外れていく。

思考は止まり、感覚だけが拡張していった。

 

13手目。

14手目──

16手目で、右ヒールを深くかけて小さく身体を沈める。

そこが最後のレストポイントだった。

目の前にあるのは、最終核心。

遠くに配置された、細いエッジへのランジ

岩は、ここで跳ばせる。

ここに至った者だけに、一度だけ許される飛翔の一手

 

一条は、動かない。

その姿はまるで、時間から切り離された彫像のようだった。

肩がゆっくりと上下する。

心臓が、ドク、ドク、と鳴る音が、耳の奥で膨張する。

彼は左手を軽く外し、ぶら下げた腕を小刻みに振った

シェイク。

パンプした前腕に、血が流れ始める感覚。

再び持ち直し、今度は右。

肘から先を垂らし、指をぶらぶらと振る。

数度のシェイク。

乳酸の滞りが、わずかに解けていく。

息を鼻から吸い込み、口からゆっくりと吐き出す。

「6拍吸って、8拍吐く」

いつも自分に言い聞かせているレストのリズム。

岩の上では、酸素も、時間も、有限だ。

 

「……静かに」

声にならない命令が、内側から響く。

すぐには跳ばない。

跳べない。

ランジとは、感情を乗せる行為だ。

喜びや興奮が混じれば、精度は落ちる。

必要なのは、限りなく空に近い精神。

無感情、無脈動、無思想。

彼は、シェイクと呼吸を繰り返しながら、内なる濁流を沈めていく

風が過ぎる。

目を閉じる。

鼓動が、深海のように、静かに沈む。

“いまだ”

内なる何かがそう告げた。

彼は目を開け、右足に力を込め、両腕をわずかに引いた。

その瞬間、身体が浮いた。

音も重力もなかった。

世界が、岩と、自分と、その一手だけになった。

指が──かすかに、ホールドにかかる。

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