第三章 証明
静止した。
身体が、岩に張りついたまま、ピクリとも動かない。
彼の右手は、核心のホールドを捉えていた。
それは、ただ“届いた”という感覚ではなかった。
掴まれるべくして掴んだ、そういう確信だった。
ランジの勢いはすでに抜け、左手が冷静にエッジを補助する。
足を寄せる。腰を上げる。
残されたムーブは、たったの三手。
左、右、そして──
最後のホールドを、掌全体で包み込むように押さえ、そのまま岩の上に立った。
静寂だった。
森も、風も、月も、一斉に沈黙したように思えた。
あるいは、自分の耳が塞がれていたのかもしれない。
手のひらに、岩の温度が伝わる。
ザラつき。突起。気泡の化石。
数百万年をかけて、この一点は、今夜のためだけに存在していた。
全身が、振動していた。
だがそれは、達成の震えではない。
もっと内側の、もっと根深い、何かが軋む音だった。
一条は、動かなかった。
「やった」
「登れた」
「これで終わった」──
そうした言葉は浮かばなかった。
ただ、ひとつだけ思った。
「……完成してしまった。」
ゆっくりと降りる。
マットに足が触れたとき、呼吸が再び始まった。
肺が空気を吸う。
身体が、自分のものとして戻ってくる。
彼はマットに膝をつき、地面に掌を置いた。
そして、顔を伏せた。
泣いていた。
音はない。
ただ、目から、頬から、地面に染みる雫。
それが何の涙なのか、自分でも分からなかった。
喜びではなかった。
安堵でも、解放でもなかった。
それは、死のような感覚だった。
何かが、ここで、終わった。
確かに終わったのだ。
だから──もう、誰にも触れてほしくなかった。
登られる前は「対話」だった。
登った今は、「記録」になる。
それが耐えられなかった。
「これは、私の“証明”だ」
「誰かが再び登ったら、その意味は壊れてしまう」
夜が深くなる。
月が高くなる。
森がまた音を取り戻す。
彼は岩を見上げる。
もう、登らなくていい。
もう、触れてはいけない。
この岩は、自分の“魂”を宿したまま、封じられなければならない。
彼は立ち上がった。
無言のまま、チョーク跡を手で払い落とし始めた。
何度も、何度も、擦った。
まるで自分の指紋を、この世界から消すかのように。