第四章 発見
「……もう誰にも見つかるな」
それが一条の、最初の願いだった。
登った翌日、彼は岩場に戻り、テープの目印やマットの痕跡をすべて消した。
入り口には枝を組み、藪を引き直した。
林道からの分岐も、分からぬように落ち葉を撒いた。
岩を登ったという記録も、写真も、動画も公開しなかった。
SNSには何も書かず、口にも出さず、誰にも言わなかった。
それでよかった。
空観は、完成した。
もう、誰の手にも渡ってはいけなかった。
だが──世の中は、嗅ぎつける。
画面の再生ボタンを押すのを、ためらった。
通知は空観初登時に立ち会っていた山岡からだった。
件名はない。ただ、ひとつのURLが貼られていた。
YouTubeだった。
タイトルにはこうあった。
《日本最難V16 “空観”/一条誠 完登映像(フルノーカット)》
《※岩の詳細は非公開ですが、歴史的映像として残します。》
一条は、眉ひとつ動かさずに再生した。
画面には、自分の背中が映っていた。
上裸の肉体。
夕暮れの岩。
静寂の中で、呼吸が整っていく。
スタートホールドを握り、ひとつずつムーブを重ねる姿が、高画質で鮮明に収められていた。
16手目のヒールフック。
17手目のシェイク。
18手目の静止。
そして──核心のランジ。
身体が浮き、エッジに指が吸い付く。
その一瞬の美が、スローモーションでリプレイされていた。
「これは…芸術だろ……」
カメラの裏で、山岡の声が小さく漏れていた。
動画はそのままトップアウトまでノーカットで流れ、
岩の前に跪く一条の姿まで、克明に映し出していた。
その下にはコメント欄がついていた。
賛辞と、疑念と、賞賛と、分析。
再生回数は十万を超えていた。
「ムーブ完璧すぎる」
「このヒールの位置、真似できるかな?」
「4:12からのランジ、鳥肌立った」
「めちゃくちゃカッコいい」
「明日現地入りしてくる」
「このムーブ、めちゃくちゃ理詰めだな」
一条は、無表情のまま動画を閉じた。
それが、自分だったとは思えなかった。
自分の登りが、教本になっているようだった。
模倣。
コピー。
再演。
消費。
誰も、“観じて”いなかった。
ただ、“なぞって”いた。
三日後。
一条は深夜、岩場に立った。
取り付きの前には、複数人の踏み跡が残っていた。
マットの圧痕。落ちたテーピング。チョークの粉。
ホールドには、自分の登りそのままのチョーク跡がついていた。
見覚えがあった。
あの位置。あの角度。
それは、自分の動きだった。
“空観”は、真似されていた。
彼の思考は、徐々に形を失っていった。
自分が刻んだ20手が、ただの攻略法として切り取られ、再構築されている。
誰も、“登って”いない。
ただ、“コピーしている”。
「……そんなもんじゃ、ないんだよ」
呟いた声は、ひどくかすれていた。
空観は、ムーブではない。
空観は、問いだった。
対話だった。
一度しか交わせない、魂の交感だった。
それを、動画で。
繰り返し見て。
なぞって、攻略して──
挙げ句、再登?
冗談じゃない。
「登られるくらいなら、壊した方がマシだ……」
ポケットから、金属ケースを取り出した。
中には、細い金属製のチゼルと、研磨用のファイル。
手が勝手に動いていた。
右手ピンチ。
16手目の支点。
誰もが「止めたい」と思うあのホールド。
そこに、刃をあてた。
ひと掻き目は、浅かった。
だが、止められなかった。
二度目。
三度目。
カチリ、カチリ、と音がして、
岩の表面が、少しずつ削れていく。
彼の鼓動もまた、一定ではなく、ガタガタと崩れていった。
終えたあと、彼はただ手を組み、岩の前に座り込んだ。
まるで墓守のように。
「これで、もう誰も──辿れない」
そう、思いたかった。
だが──
彼の後方には、その様子をスマホで撮影していた男のシルエットが、無言で立っていた。