第六章 炎上
「誰がやったんですか?」
「これは事件だろ」
「マジで許せない」
「空観が……終わった」
朝、最初の投稿はインスタのストーリーだった。
短い動画。
暗闇の中、岩の前で何かを削る人影。
光はないが、輪郭で分かる。
その背中は、一条誠だった。
動画にはテキストが添えられていた。
《これ、空観の核心じゃね?》
昼には、YouTubeに転載され、X(旧Twitter)で拡散された。
数時間でクライミング界のタイムラインは**“空観チッピング事件”**一色になった。
誰もが騒いだ。
誰もが正義を語った。
誰もが「この岩は、守られるべきだった」と言った。
だが、その数日前──
同じ人々が、「再登チャレンジ!」と題して空観のムーブ解説をしていた。
一条は、沈黙していた。
携帯の電源は切ったまま。
誰からの電話も、メッセージも受けなかった。
山を降りず、岩場の近くの小屋に籠もっていた。
彼は知っていた。
誰が見ても、あの動画の姿は自分だ。
否定しても無意味だ。
ただ、**何も言わないことだけが、彼の“主張”**だった。
もう、言葉では何も残せない。
空観がそうだったように、行為だけが意味を持つ。
だから、沈黙だけが、最後の形だった。
数日後、小屋にひとりの男が現れた。
山岡だった。
ドアは開いていた。
中には灯りもなく、一条は床に胡座をかいていた。
山岡は入ってきて、ためらいなく言った。
「……なあ、一条。お前、やったのか?」
一条は何も言わなかった。
山岡は腰を下ろした。
沈黙が数分続いたあと、彼が言った。
「俺、悪かったと思ってるよ。でもさ──
あの動画見て、登りたいって思った奴、山ほどいたんだ。
誰かが、“受け取った”ってことじゃないのか?」
その言葉に、一条の肩がピクリと動いた。
受け取った?
あの登りを?
あの対話を?
あの魂の接触を──再生回数とチョークの跡で消費した連中が?
「……山岡」
声が出たのは、それが最初で最後だった。
「“作品”ってのはな、触れた瞬間に壊れることがあるんだよ」
「……は?」
「俺が空観を登ったあの瞬間──もう、完成してたんだ。
あとは、誰が何やろうと、全部“上書き”だ。
あの岩は、“一度だけの問い”だった。
お前らはそれを、問題集にしたんだよ」
山岡は何も言えなかった。
その言葉は、怒りでも、嘆きでもなかった。
「じゃあ、どうするんだよ」
そう言った山岡に、一条はもう答えなかった。
外の風の音だけが、小屋の壁を鳴らしていた。