第七章「訪問者」
一条誠が人前から姿を消して、半年が経っていた。
「空観チッピング事件」の騒ぎも沈静化し、
再登の試みも次第に話題性を失っていった。
“破壊された課題”。
“失われた最難”。
そのタグだけを残して、空観は誰にも触れられないまま放置された。
──ケンジが、山に現れたのは、その春だった。
彼は若く、沈黙がちで、どこか古いクライマーのような匂いを纏っていた。
海外の長期ツアーで《Burden of Dreams》《Return of the Sleepwalker》を完登した、
数少ないV17クライマー。
彼は、あの動画すら見ていなかった。
しかし、尊敬する一条誠がチッピングをしたという噂を聞いた。
なぜ、そんなことをしたのか
空観という岩が、どれだけ騒がれ、語られ、壊されたかを、
“言葉”ではなく“風景”として知りたいと思っていた。
彼は、誰に頼るでもなく、一条を探した。
噂を辿り、数少ない共通の知人を当たり、
そしてある山小屋の裏庭で、薪を割る一条と出会った。
「……あんたに、会いたかった」
ケンジは、そう言ったきり、しばらく黙っていた。
「俺、あの動画、見てないんです。
でも……なんで、壊したのか、知りたくて」
一条は、少し驚いたように彼を見た。
目は鋭いままだったが、どこか乾いていた。
沈黙がしばらく続いたあと、彼は言った。
「君、クライミング、好きか?」
ケンジは頷いた。
「登るのが、怖いくらいに」
それだけで、一条はそれ以上、何も語らなかった。
だがケンジには、それで十分だった。
彼は、空観に向かった。
岩は、風にさらされ、苔に覆われ始めていた。