最終章「再登」
かつてチッピングされた核心のピンチホールドは、今も歪んだままだった。
エッジは欠け、指がまともにかかる部分は残っていない。
それでもケンジは、岩を見上げて、
足元に置いたノートに、ひとことだけ書き込んだ。
クライミングは、創造力だ。
彼は、静かに登り始めた。
ムーブは、完全に一条と異なっていた。
壊れたピンチは避けない。
むしろ“壊れた形”そのものを、新たな保持点として使っていた。
左手でピンチの下をクロス気味にスタック。
右足でトゥをかけ、左足はヒールフック──
バランスを崩したまま、ヒール&トゥを同時に切る。
そして背面から裏側を叩くようにガストン。
そこから腰を沈め、胸を張るようにして重心を引き寄せる。
常識から逸脱したムーブだった。
だがそこには、ひとつひとつの動きに、**“考え抜かれた創造”**が宿っていた。
核心の一手、ケンジはかつて一条がランジで捉えたムーブではなく、
一条が見逃していた数ミリのカチを経由てから捉えた。
指が吸い付き、体が宙に浮く。
核心を超え、あとは慎重にトップアウト。
岩の上で、ケンジは静かに立ち上がった。
笑わず、叫ばず、拳も挙げない。
ただ、目を閉じて呼吸を整えた。
「今まで登ったどの課題より……難しかった。
おそらくV17以上ある。
でも……それよりも、美しかった。」
彼は岩を丁寧にブラッシングし、何も形跡を残さないように荷をまとめて、静かに岩を後にした。
ケンジもまた、SNSに動画を投稿するのは違うと感じていた。
──その登りを、木陰から見ていた男がひとりいた。
帽子を深くかぶり、手を組んで立ち尽くす影。
一条誠。
彼は、息を詰めながらその一手一手を見つめていた。
かつての己のムーブとは違う。
だが、そこには明らかに“問い”があった。
壊されたはずの岩から、再び立ち現れる創造の回答。
「……クライミングは、創造力だ。」
胸の奥に、懐かしい熱が戻ってくるのを感じた。
狂気の末に破壊したはずの岩が、いままた芸術として立ち上がっていた。
彼は、帽子を脱いで深く一礼した。
風が吹いた。
森がざわめいた。
“空観 after Blake”V17──
それは誰にも共有されないまま、
世界にただひとつだけの登攀として、静かにそこに残された。
(終)