【コラム】名クライマーはポエマー?

ムーブを“詩”にする──比喩と言語イメージが拓くクライミングの芸術性


目次

【1】登攀に“詩”は必要か?

「岩の左肩から、そっと回り込むように風が流れていた」

あるトップクライマーのルート日記に書かれた一文だ。

いや、それ登りの記録か?というくらい詩的すぎるが──

読んだ瞬間、僕の脳裏にも確かに風が吹いた。そこに岩があり、気配があり、指先が震え、足裏が探っているのが見えた。

この感覚。

誰かの“ムーブ”が、単なるテクニックの羅列ではなく、まるで詩のように浮かび上がってくる瞬間がある。

名クライマーたちの中には、言葉をも芸術として操る者たちがいる。

彼らは「登り」を“記録”ではなく“表現”として記す。

比喩と詩的イメージが、登攀の奥行きを拓いていくのだ。


【2】比喩がムーブを変える──「引きつける」ではなく「抱きしめる」

ムーブの言語化において、比喩はときに技術書を凌駕する。

「このホールドは、意地悪な猫を撫でるように触れ」

「ポケットに指を入れるというより、“指が吸い込まれる”のを待て」

「ランジの前に“振り子の重心”になるイメージ」

こうした表現に共通するのは、“正解の姿勢”を伝えているのではなく、“状態”を伝えているという点だ。

言葉の力で、動きの質感や心理まで共有できてしまう。

これは、単なる「説明」ではない。

比喩は、身体の無意識を動かす暗号でもある。

だからこそ、ムーブは“詩”になる。


【3】なぜ名クライマーはポエマーなのか

本当に強いクライマーほど、「ムーブの言語化」が異様に上手い。

その秘密は、彼らが感じている「世界の解像度」が異なるからだ。

あるクライマーは、“サイドプル”の感覚を「扉を横から開けるような、丁寧な押し引き」と表現する。

彼にとってホールドは記号ではなく、生きた対象なのだ。

また、安間佐千はムーブについて語るとき、よく「空気」や「余白」といった、触れられないものを基準にする。

またあるクライマーは「ホールドじゃなく、ホールドに向かう“気配”を感じる」という。

もはやこれは詩である。

彼らの語彙の豊かさは、彼らの登りの豊かさそのものだ。


【4】「芸術としての登攀」──ムーブは即興の詩になるか?

クライミングを「スポーツ」ではなく「アート」として語るとき、

鍵となるのは、その一手一手が“即興詩”であるという意識だ。

整備された課題を反復するだけではなく、

風の匂い、日差しの強さ、前の一手の余韻──

そうした全てを踏まえて“いま・ここ”に生まれる一手。

それは、譜面にないジャズのソロのようであり、

定型に抗う自由詩のようでもある。

ムーブの記憶は薄れやすい。けれど、

“ある比喩”で語られたムーブは、記憶の中でいつまでも生き続ける。


【5】比喩を鍛える=登りの創造性を鍛える

「言葉は登りに必要か?」という問いは、

実は「創造性は登りに必要か?」という問いと同義だ。

自分の登りをどう語るか。

仲間にどう伝えるか。

それによって、登りの見え方がまるで変わってくる。

だからこそ、以下のような練習を提案したい:

  • 自分の登りに「キャッチコピー」をつけてみる
  • 特定のムーブを、3つの異なる比喩で表現してみる
  • 自分の動画を見返して、“詩”として実況してみる

言葉を磨くことは、

自分のムーブを磨くことと同じだ。


【6】最後に──“語るクライマー”たちへ

SNSや動画の時代にあって、

最も軽視されがちなのが、「言葉」である。

けれど──最も深く残るのも、やはり「言葉」なのだ。

名クライマーたちは、

その登攀と同じ熱量で、自らの登りを語る。

“指で詩を刻み”、

“言葉でムーブを再演”する。

あなたの登りにも、詩が宿っている。

それを見つけることは、登ることと同じくらい、価値のある創造行為だ。


「岩に語りかける者こそが、岩に応えてもらえる」──

そんなクライマーで、ありたい。

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