完登動画カンニング禁止令─登るという行為に必要なのは「未知」か「正解」か─

動画を見ることは、本当に“準備”なのか

外岩に向かう途中の車内で、あるいは前夜のベッドの中で──

スマートフォンを開き、目当ての課題を検索し、誰かの完登動画を再生する。

ラインの流れ、ムーブの組み方、核心の処理。情報は視覚的にすぐに手に入る。

これは、準備なのだろうか?

それとも、登る前から“答え”に手を伸ばしてしまっている行為なのか?

現代のクライミング環境において、完登動画の存在はもはや前提となっている。

だがその一方で、ムーブを知らないまま登るという行為の価値は、あまり語られることがない。


目次

【1. 完登動画は「認知的負荷」を軽減するツールである】

まず、動画を事前に見るという行為には明確なメリットがある。

これは心理学でいうところの「スキーマの形成」──すなわち、あらかじめ情報構造を頭に入れておくことで、現場での認知的負荷を下げる働きがある。

トライ中に脳内で判断しなければならない選択肢が減ることで、ストレス反応も低下し、集中力が本来の動作に向きやすくなる。

これは、トップアスリートたちが映像を使った“イメージトレーニング”を行う理由とも一致する。

つまり、動画を見ることは「ミスを減らすための戦略」としては有効だ。

しかし──それが果たして、クライミングの本質にとっても有効なのだろうか?


【2. ムーブを考えるプロセスは「神経的学習体験」そのもの】

オンサイトやフラッシュを試みるとき、脳は「予測とフィードバック」を繰り返しながら登っている。

これは神経科学的には「内在的報酬系(intrinsic reward system)」が活性化している状態だ。

わからない動きに対して仮説を立て、それを実行し、結果として成功や失敗を受け取る──

この繰り返しが、ドーパミン神経系を強く刺激する。

つまり、ムーブを自分で探る過程そのものが、“登る”という行為における快楽の源泉である。

事前に答えを知ってしまえば、この試行錯誤の回路は最短で済んでしまい、

結果として「身体に残る学習」も「記憶に残る登攀」も浅くなる傾向がある。


【3. 不確実性の中にこそ、人は“自己効力感”を見出す】

バンデューラの理論における「自己効力感(self-efficacy)」──

これは人が自分自身を信じ、行動する動機を高める重要な心理的資源だ。

オンサイトやフラッシュに成功したとき、人は単に課題を登れたこと以上に、

「未知に立ち向かい、自らの力で突破した」という実感を得る。

これは、他者のムーブを模倣して成功したときには得られにくい。

「分からないけど、やってみる」

「うまくいかない。でも考える」

「何かが掴めてきた」

──この一連の体験が、クライマーとしての自信や創造性を育てる。


【4. 動画が奪うもの──“問い”としての登り】

完登動画を見るということは、課題を「問い」ではなく「答え」として扱う行為に近い。

クライミングが本来持っている、“どう登るか”という開かれた構造を、

“こうすれば登れる”という閉じた構造へと変えてしまう。

もちろん、トライの目的が成果であるならば、最短解をなぞることは合理的だ。

だが、もしあなたが「登ること」に価値を感じているならば、

そこには「問い続けることの美しさ」が必要ではないか。

登れなかったけれど、深く記憶に残っている一本。

あれはいつも、初見で、混乱して、苦しんで、でも確かに“対話”をした登りではなかっただろうか。


「今日は一本でも成果がほしい」

「移動も育児も仕事もやりくりして、やっと来た」

そうした背景を持つ人ほど、完登動画に手を伸ばしたくなる気持ちは理解できる。

だが、時間が限られているからこそ、一本の登りを深く味わうという選択肢がある。

短い時間で浅く広く登るのではなく、

たとえ登れなくても、自分の身体と感覚をフルに使って、一つの課題と向き合う。

その記憶は、成果よりも長く心に残ることがある。


【結び】情報の時代に、「知らずに登る」という贅沢を

現代は、あらゆる情報が手に入る時代だ。

完登動画も、トポも、ムーブ解説も、SNSのβ投稿も。

だが、だからこそあえて「何も知らないまま登る」ことには、大きな価値がある。

それは知識の欠如ではなく、体験の純度を高めるための意図的な選択だ。

目の前の岩に、ただ自分の感覚と直感と、身体だけで挑む。

その時間は、失われやすい「創造の感覚」を取り戻す行為でもある。

どう登るか。

それを決めるのは、他人の動画ではなく、あなた自身であってほしい。

引用・参考情報:

  • Bandura, A. (1977). Self-efficacy: Toward a unifying theory of behavioral change. Psychological Review.
  • Schultz, W. (1998). Predictive reward signal of dopamine neurons. Journal of Neurophysiology.
  • Ericsson, K. A., & Ward, P. (2007). Capturing the naturally occurring superior performance of experts. Current Directions in Psychological Science.
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