パワーインフレと黙示録
――“V17”と“いいね”に支配された登攀の未来
この10年で、クライミングは驚くほど変わった。
いや、変わってしまった、のほうが正確かもしれない。
街にはジムが増え、動画の中ではV16が量産され、SNSのタイムラインは「今日の成果」で埋め尽くされている。
そのスピードについていけなくなった誰かが、静かに岩場を去っていく。
誰にも見られず、誰にも知られず。
登攀の風景は、知らないうちに二極化していた。
グレードのインフレと、完登の価値のデフレ
かつてV14は“神の領域”だった。
でも今は、V16を登る10代の名前が毎月のように更新される。
プロクライマーでも無い人間がV15を登る。
岩の上で泣いていたはずの「限界グレード」が、今や彼らの“アップ”になっている。
ここにあるのは、「強さ」のインフレと、
「達成」のデフレだ。
SNSはそれを正確に可視化する。
再生数、フォロワー数、ハッシュタグ、アルゴリズム。
登攀は個人的な祈りから、パフォーマンスへと変質した。
見せる登攀 vs 消える登攀
スマートフォンが、岩よりも重くなった日があった。
完登よりも「撮れてるか」が気になった瞬間があった。
登るたびに、どこかで「誰かに見せること」を前提にしていた自分に気づいてしまった。
その裏側で、誰にも見せない完登を続ける人たちがいる。
映像も撮らず、記録もせず、自己申告すらしない。
地味で、泥臭くて、不器用で、誰のためでもない登り。
それはもはや登攀というより、儀式に近い。
“いいね”の向こうにある空洞
「登る意味がわからなくなった」
そう言ってクライミングを離れていった友人がいる。
SNSを開けば天才が映り、タイムラインにV14が流れ、
いつのまにか、登れない自分が“間違っている”気がしてきたと。
だが本当は逆かもしれない。
意味を失っているのは、僕たちではなく、情報のほうだ。
数値化された強さと、演出された完登映像の裏で、
“登る理由”が溶けていく音がしている。
静かな反乱者たちへ
もしかしたら、これからの登攀は“選ばれた者”だけのものになるのかもしれない。
フィジカルと資金とセルフプロデュース力を持つ者だけが、“クライマー”を名乗る時代。
でも、まだ終わったわけじゃない。
黙って登って、黙って帰る人がいる限り。
誰にも見られない場所で、誰にも知られない完登が続いている限り。
「なぜ登るのか?」と問われたら、もう答えられないかもしれない。
けれど、答えられないからこそ登る。
その不器用さの中にしか、本当の登攀の美しさは残らないのかもしれない。